口頭無形分化剤 その29


「想い」 −あるいは「僕の言葉」−


 リクエスト企画の第4弾。
 今回は西夜さんにリクエスト頂きました「想い」です。

 「想い」というのは、難しくて、そのくせ解釈が広くて、厄介な お題ですね。
 さっき辞書を見て呆然としてしまいました。
 てか、辞書の記述、長すぎ!
 関連記事が3段ブチ抜き、「思い〜」という言葉になると3ページ にもなっちゃいます(苦笑)

 こりゃ、単語から攻めたのではどうにもなりませんね。
 ま、判ってたことですが(苦笑)

 つらつらと、いきますかね。
 思いつくまま。
 筆の進むまま。


 「想い」ってのは、要するに「心を込めた強い意志・深い考え」 のようなものを指すと思うのですがね(あ、また「おもう」だ(苦笑))。
 これは、誰にでもあるんですよね。

 たとえば、僕の「想い」。
 たとえば、西夜さんの「想い」。

 これを、ただ己の内に秘めているぶんには、何一つ問題はないわ けです。何の矛盾も、何の間違いもない。
 けれど人は、「想い」を誰かに伝えなければならない。
 そう人は、決して1人では生きてはいけないからです。

 すると突然、「想い」は厄介なモノに化けます。
 「想い」を誰かに伝えるためには、それを「言葉」に変換する という作業が必要になってくるからです。

 人の心ってのは、困ったモノでね。
 人は自分自身の心の中さえも、総てが解っているわけではない のです。
 いや、もしかしたら、解ってない部分の方が多いかもしれない。
 つまり、「想い」を抱く主体たる「心」そのものを、正確に知る ことは極めて難しいのです。
 まして、他人の心となればなおさらです。
 だからこそ、他人の気持ちを窺うことは至難です。
 だからこそ、人に気持ちを解ってもらうことは難しいのです。

 「想い」を伝えるということ。
 そこにはだから、2重の困難があります。
 まず、自分の「想い」を正確に言葉に変換すること。
 そして、それを相手に正確に理解してもらうこと。

 このどちらが欠けても、「想い」を正しく相手に伝えることはできません。
 より正確に言えば、どちらか、あるいは両方が不完全だと、「想い」 は歪んで伝わってしまうことになります。

 以心伝心ってのも、あるにはありますがね。
 そうなると、言葉で伝えるよりもうひとつ困難になりますね。
 「想い」というモノがあって、それが宙を飛んで相手に届くわけ ではない以上、それはつまり、相手が抱いた「想い」を、こちらが 想像で埋めるという行為であるわけです。
 正確にやろうと思うと、相手に対する深い理解と洞察、経験と勘 が要求されますね。そして、そういうことができる相手ならば、苦も なく言葉で「想い」を伝えることができるハズでね。
 ま、実際のところは、「解ったフリ」、「伝わったハズ」てのが多 いんだとは思いますがね(苦笑)

 マクラが長すぎましたね(苦笑)


 さて、せっかくですから、ここでは僕が持ってるある「想い」につ いて書いてみたいと思います。

 このサイトを運営するようになって、特に思うようになったんです がね。
 僕は、僕と仲良くしてくれる人たちのことを、本当に大切に思って いるんですね。
 僕は、世界の平和とか、不幸で恵まれない環境に生きている人た ちのこととか、世界中の総ての人たちの幸福を祈って暮らしていける ほど心の大きな人間ではないんですがね。それでも、僕の手の届く ところにいてくれる、僕の大好きな人たちの幸福なら、祈ってもいい。
 そのために、僕の言葉が、何かしらの役に立てるというのなら、 喜んで言葉を紡ぎたいと、これはホントにそう思います。

 たとえば、これを読んでくれるあなたが、幸せでいてくれるなら、 こんな嬉しいことはないです。
 たとえば、これを読んでくれるあなたが、何かに困っているのな ら、僕でできることならば、何とかしてあげたいと思ってしまいます。

 結局ね。
 そういうことだと思うんですね。

 僕は、人間が他人を救うということは、とても難しいことであると 思っています。
 この世に生きる総ての人々が、自分という物語の主人公です。
 どんなにつまらない人生だと思っても、どんなにくだらない人間で あろうとも、総ての人々に、自分と同じような、そしてまったく異質な 歴史があって、人生があって、しがらみがあって・・・。
 他人を救うってことは、それら総てを受け止めて、同じ苦労と、 同じ歴史を共有するってことで、それは、とても覚悟がいることだと 思うんですね。

 だから僕は、人間が本当に救うことができる他人ってのは、釈迦 やキリストでもない限り、自分の生涯総てを賭けたとしても、せいぜ い1人だと思うんですよ。
 1人どころか、誰1人救うことができない人間だって、それはいっ ぱいいるわけです。

 そこまでちゃんと解ったうえで、僕が大好きな人たちのために、 僕にできること・・・。

 だから、僕はね。
 言葉を紡ぐことにしたんです。

 何一つ背負う覚悟のない人間の、何一つ賭けるモノを持ってない 人間の言葉ってのは、結局他の誰かにとって、何の価値もない、無 責任この上ない、上っ滑りのタワゴトです。
 それでもそのタワゴトに、なにかしらの価値を持たせることがで きたとしたら、それはもしかしたら、誰かにとって、あるいは有意 義な言葉に化けるかもしれない・・・。

 言葉はね。
 意思を表すための記号に過ぎません。
 けどね・・・。

 たとえばまったく同じ言葉でも、それを吐いた人間が違えば、 環境が違えば、時代が違えば、言葉はまったく違う重みと意味合いを 持ちますよね。
 これはね。
 言葉というモノが持っている魔力です。

 僕が吐いた無意味な言葉に、何かしらの価値を乗せる。
 それは、一見僕の作業に見えますがね。
 本当は、受け取る側の人間の作業なんですね。

 言葉を受け取った人間が、僕の言葉の意味を決め、その言葉の 価値を決める。
 僕が行おうとしている作業はね。
 その受け取った人間の「価値を決める作業」そのものに、言葉 によって、僕の意図する影響を与える、という行為なんですね。

 これは、一種のマインドコントロールです。

 それが、僕が言うところの、「魔法」です。


 僕は、その言葉を使って、僕が大好きな人たちに語りかけます。
 僕がこの「想い」を持ち続ける限り、だから僕の言葉は、 信頼してもらっても良いものだと思っているのだけれど、どうでしょう?

 僕の「想い」。


 僕の大好きな人が、幸せでいて欲しい、ということです。

H.13 10/14



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