口頭無形分化剤 その27


「怒り」という名の感情


 リクエスト企画の第2弾。

 今回はきよりんさんにリクエスト頂いた「怒り」です。

 この間から、ずっとこれについて考えてたんですけどね。
 実はちょっと困っていたんです。
 僕は怒りっぽいって、前に「つれづれに」で書いたんですけどね。
 すぐカチンと来るワリには、「怒り」となると、日常生活ではほと んど感じないし、感じても持続しないんですよ。

 分析してたんですがね。
 僕はどうやら、感じた「怒り」を、そのつどすぐさま分解して、祓 い落としてしまっているようなんですね。

 これには少し、解説が必要ですね。

 「怒り」に限ったことでもないんだろうけど、僕の精神の「安定」 にとって不必要な感情が生起した場合、僕は意識的、無意識的を問 わず、とりあえずその感情の原因を分析するわけです。
 分析した情報を元に原因を解体して、事象を操作可能なレベルに まで引き下げる。
 そうしておいて、その原因の元の部分を除去しようとするんですね。

 解りがたいですかね?
 具体的に言うと、誰かのある理不尽な行動に「怒り」を感じたよ うな場合、その誰かの何が「理不尽」であったのか、まずその根本 を見つめるわけです。その上で、起こってしまったことと継続中のこ と、除去可能なものと不可能なもの、改善可能なものとそうでないも のなんかを吟味して、それに対して自分から働きかけることが可能で あるものについて考える。

 この場合、僕自身の「働きかけることができる」ってのが重要で、 どうにもならないことは、その時点で切り捨ててしまいます。
 できもしないことで悩まない。
 不可能なところは切り捨てる。
 そして、可能な選択肢を絞り込んで、自分の主義と照らして、必 要なら行動する。

 言葉にするとやけに難しいですがね(苦笑)
 要するに、「怒り」を感じた時点で、「怒り」の元を分解して 「怒り」が無い状態にしてしまうわけです。
 ま、ほとんど無意識に行っているわけですが。

 これはほとんどの感情に対して言えることでしてね。
 だから僕には「迷う」ということがない。
 基本にする行動規範をあらかじめ持っているからです。
 選択肢が多くても、自分が選ぶべきモノは、ほとんどの場合あらか じめ決まっている。

 おかげで僕は、「怒り」のような僕にとっての負の感情を、持続 させることができないのですね。僕はそれらを、継続して持ち続け ることが必要であるとは考えていない。
 僕にあるのは、原因の除去や、回避や、攻撃といったような 「行動」であるわけです。
 そして、行動する以上、それは「怒り」に任せたものではあり得 ない。
 冷徹な目で見据え、冷静な頭脳が許容した「行動」しか、僕はと りたくないからです。

 ・・・つまんない男ですねぇ(苦笑)


 これでは「怒り」を鷲掴みにしたエッセイは書けませんね(苦笑)
 そこで、少し枠を広げさせてもらいましょう。

 「感情」というモノについてです。
 「情動」とか、「気分」といっても良い。
 この場合、主体自体が感じるものに話を限定しましょう。

 「快い」「不満だ」「楽しい」「辛い」「哀しい」なんでもいい ですけどね。
 「怒り」も、いうまでもなく「感情」の一形態であるわけです。

 これらの「感情」とはいったい何なのか−−
 これは、僕らの脳で生成されたアドレナリンやらドーパミンやらといっ たホルモンや、エンケファリンやらβ-エンドルフィンやらといった脳内 麻薬のようなものが、僕たちの意識にもたらしている「錯覚」なの です。

 意識−−「自我」とか「心」と言い換えても良いですがね。
 実はこれが厄介でね。

 僕たちは、意識こそが自分自身であると勘違いしてしまいがちです。
 意識が身体を使役しているように錯覚を起こす。
 けどこれは、誤りです。

 僕たちにあるのは、この身体だけです。
 意識も自我も感情も、心さえも、実は身体が起こす錯覚に過ぎな い。
 愛だの恋だのといったものも同様です。
 どこまでいっても、それは脳内の物理作用に還元できる。

 だからといって、何一つ悲観することはありません。
 その「錯覚」こそが心なのです。
 その「錯覚」こそが自我なのです。
 その「錯覚」こそが感情なのです。
 その「錯覚」こそが愛なのです。

 愛が「錯覚」に過ぎなくても、感情が「脳内麻薬の作用」に過ぎ なくても、自我が「脳と神経の信号交換」に過ぎなくても、それらの 価値は、何一つ失われはしません。
 それを創りだすよう設計されたモノが、僕らの身体だからです。


 この「錯覚」の凄いところは、身体の「錯覚」であるに も関わらず、その主体である身体を部分的に支配しているというコト です。
 そう心は、それを創り出している身体に影響を与えることができる。

 身体を動かすことができる。
 感情をコントロールできる。
 自我を意識できる。

 「あたりまえ」に戻ってしまいましたね。
 これはどういうことかというとね。
 つまり、支配するモノが支配されている、ということです。
 支配されているのは、支配しているモノなのです。

 考えれば考えるだけ、本末は転倒します。
 この密接な関係が、事態をわかりにくくしているのですね。


 それはともかく。
 ここで勘違いして欲しくないのは、意識が「怒り」を感じるので はないという点です。
 意識というモノが身体とは別にあって、それが「怒っている身体」 を感じているのではなく、僕らが「怒り」を感じているとき、それは 僕らの意識自体が「怒っている状態」である、ということです。

 言葉にすると、伝わりにくいですねぇ。
 微妙ですが、この違いがこそが重要なのです。

 僕たちの意識には、身体を所有している感覚があります。
 けれど身体は、意識を創りだしているという意味で、それを所有し ています。
 意識−−心と、身体。
 僕たちにとって、それはどこまでも不可分のモノです。
 それは本来的に、分けて考えるべきモノではないのです。
 けれど−−

 科学の進歩は、それを分けて考えることを可能にしてしまいまし た。
 ヴァーチャルリアリティ−−仮想現実がそれです。
 サイバースペース−−ネットの世界がそれです。

 これらは、本来的に、身体を必要としません。
 (広い意味に取れば、たとえば目が必要であり、指が必要であり、 声が必要であるかもしれず、耳も必要かも知れませんが、そういう煩 瑣な話は、ここでは一時置きます)

 こういう環境は、たとえば十分に発達を終えた「心」にとっては、 ほとんど問題はないでしょう。心こそが身体であり、身体こそが心で あると、ちゃんと解っている人間ならば、何の心配もありません。
 けれど世の中は、必ずしもそういう人間ばかりでもないようなので すね。

 身体のコントロールをするように、心をコントロールすることが、 技能として、僕たちには必要です。
 そしてその訓練には、心と身体の両方が必要なのです。
 けれど最近は、心の訓練を、身体を使って行うことを、軽視する傾 向にあるような気がします。
 心は、心だけで鍛えることができると錯覚している。
 観念の世界だけで、心が完結すると思っている。
 勉強不足も甚だしいです。

 感情のコントロールができない。
 何かあるとすぐキレる。
 他人の心を理解しようとしない。
 自分以外の人の痛みが解らない。

 これらの症状は、生物としての人にとって、少し歪んでしまってい る状態であるような気がします。
 そしてそれは、本来的にされてきてしかるべき訓練が、未熟なた めに起こっているのではないかと、僕は考えています。

 「怒り」のコントロールもしかり。
 身体を操るように、心も操ってこその大人なのです。


 それができない人には、人の親になって欲しくないなぁ・・・。

H.13 10/6



インデックス へ

他の本を見る  カウンターへ行く


e-mail : nesty@mx12.freecom.ne.jp