口頭無形分化剤 その25


「つよさ」の定義


 以前から「サムライ」というものについて考えていました。
 それを考える上で、「刀」というものについても考えました。

 カタナ−−日本刀です。

 刀と侍は、切っても切れないものでしょう。
 江戸期以降、本邦では、武器は武家しか持ってはならないものと されてきました。
 無論、博徒やならず者といった連中は刃物を持っていましたが、 それでも合口やドスなどといった短いものだけで、両刀を差して往来 を歩ける人間は、武士だけだという明快な基準がありました。

 武士はその特権を誇りとし、自分たちの精神的な拠り所にまで高め、 刀を「武士の魂」などと呼び表しました。
 武士は、いわば職業軍人です。
 己の命を預ける道具に、その総てを仮託したのですね。


 凶器とは狂気です。

 凶器を帯びた者というのは、だからそれを持っていない者よりも 遙かに強い精神力を要求されます。
 人をいつでも殺傷できるものを、常に帯びているということは、 逆に言えば、それを決して使わないという自制をも求められるとい うことです。
 狂気に決して身を委ねない精神的な「つよさ」。
 それが、刀を持つ者の条件なのです。


 僕は映画を見ない男なのですがね。
 故黒沢明監督が最後の脚本を手がけた「雨あがる」という作品を、 テレビでたまたま見たことがあります。
 この作品の中で、なかなか象徴的な場面がありましてね。

 寺尾聰が演じる主人公・三沢伊兵衛が、激情にかられて刀を抜き、 殺し合いを始めようとする侍たちの間に割って入って、こういう言葉 を吐きます。

「刀というものは、人を傷つける為にあるのではありません。己のや ましい心を断ち切る為にこそあるのです」

 三沢伊兵衛はいうまでもなく、武術の達人です。
 誰よりも刀の扱いを知っている者が、刀というものの本質を、未 熟な者たちに向かって諭しているわけです。

 無論言葉というものは、その言葉が吐かれた背景を考えに入れな いわけにはいきません。思想というものは、その人間が属する時と 場所に大きく依存するからです。
 例えば戦国時代であれば、こんな言葉を侍に吐けば、嘲笑を浴び るだけでしょう。戦国の世では、刀は人殺しの道具の一つであった に過ぎません。

 映画の時代背景は、戦国が終わり世が静まり、反動で豪奢で絢爛 な生活を追っていたような元禄時代をも過ぎ、落ち着いて質実尚武を 尊ぶようになった享保の時代です。
 因みに徳川将軍は、暴れん坊で有名なあの吉宗です。

 戦場の戦士であった武士は鎧兜を忘れ、平服で戦場を思い、自堕 落な特権階級であった自分たちを恥じ、侍の本分を模索しようとする 時代的な背景があります。
 大名は侍の尚武を奨励し、侍は道場に通い、己の技を練りました。

 無論、三沢伊兵衛その人のとびきり優しい性格というコトもあった でしょうが、ようするに、刀というものを「つよさ」の象徴として捕ら え、それを思想として消化するだけの形而上の思考が、当時の日本 人にそろそろ根付いていた、ということが、大きいのです。


 時代はそれから300年下りました。

 いま、僕たちの住む世界で、あの三沢伊兵衛の言葉は、どのよ うな意味合いを持つようになったのか・・・?


 日本刀のような男になりたいと、考えていたことがありました。

 鞘の塗りが剥げていても良い。
 柄の真田紐が手垢でボロボロに切れていても良い。
 けれど、ひとたびそれを抜けば、人間の骨を肉ごと断ち切る世界 で唯一の刃物のように、恐るべき切れ味を持った男でありたいと。

 けれど、最近は、少しばかり変わって来ているようです。

 その恐るべき切れ味を持った凶器(狂気)を常に持ちながら、 決してそれを抜くことなく、笑って一生を過ごしていける男でありた いと、最近はそんなことを考えてしまいます。

 歳を取った、というコトかもしれませんがね。

H.13 9/9



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