口頭無形分化剤 その22


「良心」と「偽善」の狭間


 「偽善者」について書け、と、リクエストを頂きまして。
 書かねばなるまいと思っていたところ、今度は「良心」って何な んだろうね? と尋ねられました。
 僕はちょっと、考えてみる気になりました。

 こういう時はね。
 まずその言葉の意味から攻めなければならないと思うわけです。

 「偽善」・・・・本心でない、うわべだけの善行。
 「偽善者」・・偽善をする人。
 「良心」・・・・@道徳的に正邪・善悪を判断する意識。
        A善悪を判断して善を命じ悪を退ける知情意 の統一的意志。   

( 三省堂「大辞林」 )

 「偽善」と「偽善者」については、おおむね問題ないと思うの です。辞書の意味で、そのまま良くわかります。「善行」がポイント ですが、これは後述しましょう。

 問題は「良心」です。

 @の意味は、「君の良心に期待する」とか言うときの「良心」です ね。 
 コトの善悪・正邪を判断する場所くらいの意味です。
 「良識」といっても、そんなに遠くありません。

 Aの意味は、「良心の呵責」のときの「良心」です。
 正を善いと思い、邪を悪いと思う心の働きですね。


 言葉の意味を見ればわかってもらえるのですが、すべての単語の 意味に共通するのは、「善」という概念が入っている、ということ です。


 「善」

 非常にやっかいな概念です。
 この場で、眠くなるような講義をするつもりはないのですが、 この「善」については、古代から哲学命題として議論し尽く されているのです。

 たとえばプラトンという大昔のギリシアにいた理想主義者のおっさん は、人間の魂をこの「善」に転換させていくことが、人間の最高目 的である、なんてことを言ったりしました。

 たとえばカントという200年前のドイツのへそ曲がりは、「普遍的 道徳法則」ってのを決めて、それにのみ基づいて行動することを 「善」である、と言い切ってみたりしました。
(これ以上、僕に詳しく聞いてはいけません(苦笑))


 「善」と聞いて僕が素直に抱く印象は、「正しい」ことが「善」 に近いのではないか、ということです。

 「正しい」ということは、社会概念です。
 世界に自分1人しかいなければ、つまり世界に社会が存在しなけ れば、「正しい」という概念は意味をなしません。なぜならその時、 その1人が行う行為は、すべてが「正しい」 のであり、そんなものには名前を付ける必要がそもそもないからです。
 「正しい」は、他者との関係においてのみ成立する概念なのです。

 ならば、「善」もそうなのか???

 これは微妙です。
 哲学者が持つ世界観によって、設定の仕方が様々なのですね。
 「善」は「善」として最初から存在するとする考え方もある。
 ま、このへんは宗教もからんでくるわけですが・・・。

 ともかく、この「善」が決まらないと、「善行」も確定できないの です。
 当然「善行」が決まらないと、「偽善」も「偽善者」も決まらない。
 善悪の判断ができないから当然「良心」も決まらない。
 八方塞がりです。

 
 こういう時は・・・。

 「逆もまた真なり」っていう言葉があります。

 つまり「偽善者」から始めて、「善」を規定すれば良いのですね。


 どういう人間が「偽善者」か?
 これは例えば、「自分は善い奴だよー」という宣伝に「善行」を 利用するようなタイプ。

   「善行」・・・せっかくの「善い行い」そのものに価値を見い出 さず、計算高くその波及効果を狙うわけです。
 僕が、まさにこのタイプですね!(苦笑)
 つまり、僕が「偽善者」です(ニヤリ)

 冗談は、さておき。
 この場合のキーワードは、「自分は善い奴だよー、という宣伝」 だと思うのですね。
 悪い奴が、「自分は善い奴だよー」と宣伝するわけです。
 これは典型的な「偽善者」です。

 では逆はどうか?
 悪い奴が「自分は悪い奴です」と告白しながら、「善行」をした としたらどうでしょう?
 悪い奴が「善い行い」を行っていますが、そこに「偽善」の匂いは ありませんね。どっちかっていうと、やりたくてやってるというカンジ です。

 ポイントはここです。

 宣伝とは、言うまでもなく他人に向けて行われるモノです。
 特定少数でも不特定多数でも良い。
 その「善い行い」によって、他人をペテンにかける。
 これが「偽善」です。
 そういう人間が「偽善者」です。

 では、「嘘」−−ペテンというのは、すべからく「偽善」か?
 これは、そうではありません。
 なぜなら嘘は、釈迦でも吐いたのです。

 仏教に限ったことでもないですが、およそ本格宗教というものは、 そう簡単にその神髄を語りません。
 「怪力乱神を語らず」
 本当に知っている者というのは、その神髄を語ろうとはしないもの なのです。それは、隠されているからこそ、意味があるモノだからです。
 「隠されたもの」−−西洋では、それをオカルトと呼びました。
 それは本来、人が触れるべき領域ではないのです。

 話が逸れましたね。
 釈迦は、だからその教えを語るのに、多くの「喩え話」を残しました。
 この「喩え話」ですがね、これはみな、例外なくペテンです。
 「喩え」とは比喩です。
 これは、たとえどんなにそのものの本質を穿っているように見えた としても、本来の意味からかけ離れたまやかしにすぎません。
 つまりその意味において、比喩とは嘘に過ぎないのです。

 けれど、釈迦は「偽善者」とは呼ばれませんね?
 そう、仏の嘘は「方便」なのです。

 「嘘」というのは、喩えれば「トンカチ」のようなものです。
 トンカチとは大工道具です。
 トンカチは釘を打つことができる。
 トンカチは、家を建てることができる。
 けれどトンカチは、とても効率よく人を殺すこともできる。

 何事も、それを「どう使うか?」が重要なのです。
 嘘も、使い方によっては、人を救う道具になるかもしれない。
 「嘘」を「方便」に変えるのは、その人の「心の中の仏の性質」 −−「仏性」の有無にかかってくるのです。


 ところで、この「心の中の仏の性質」。
 これは、「良心」とは呼べないでしょうか?

 辞書に載っている意味を、僕たちの容認可能な共通認識、あるい は共通理解とするならば、僕たちは冒頭において、「良心」を 「善悪・正邪の判断基準」「善・正を尊び、悪・邪を退ける意識」 と定義しました。
 「仏」の定義は至難ですが、この「仏」の属性を「善」であると した場合、「良心」は「仏性」の公約数であると言っても良さそう な気がします。
 釈迦が意図した「仏性」の属性は、きっと「善」として問題ない ですね。
 「悪」であれば、世界宗教として成立していたとは思えません。

 ここで、1つ示されましたね。
 「仏性」は「偽善」ではない。
 すなわち「良心」から出た行為は「偽善」ではない。
 たとえ結果的にその行為が宣伝されたとしても、その行為自体を 「偽善」と呼んではいけないのです。


 ならば「善」は−−−?

   「偽善」は「本心でない、うわべだけの善行」です。
 これは裏を返せば、すなわち「表裏無い善行」が「善」である ということです。
 表裏のない、つまり「そのこと以外に雑念がない」状態。
 これを、「禅」の用語で「三昧」と言います。
 「善い行いをすることに没頭している状態」
 「善行三昧」
 これが「善」です。


 議論が拡散してきているので、まとめましょう。
 「善行」と「偽善」を分ける境界は、「良心」の有無です。
 つまり「良心」からでた行為は、とりあえず「偽善」と非難しては ならないのです。
 ただ注意すべきなのは、「善行」「偽善」は、「行為にかかる言 葉」である、ということです。つまり、総論ではなく、どこまでも各論 で語らなければならないわけです。

 ある人のある行為が「偽善」であったとしても、それをしてその人 が「偽善者」であると決めつけるのは乱暴です。
 なぜなら、「善」とは瞬間瞬間に生起するものであって、人間で ある以上、「常に善」という状態を保持することは極めて困難であ るからです。
 たとえば「一般人」のステレオタイプが無いように、人間は常に 「偽善者」でいることはできません。それは、人間が常に「善人」 でいられないのと同様なのです。
 この場合、どうしてもその「偽善者」という用語を使いたければ、 その人が過去行ったある行為をあげつらうか、その人のすべての行 動を統計的に検証し直す必要に迫られるか、どちらかしかありませ ん。
 そして後者は事実上不可能であり、結局、その人が過去行った 「偽善」を取り上げ、ネチネチと攻撃するという行為にしか、「偽 善者」という単語は使えないということになります。

 ある人に、
 「この偽善者がっ!!」
 と罵声を浴びせるのは、だから注意が必要です。
 悟りを開いてない人間である以上、その言ってる本人が同じ 「偽善者」であることは疑いないからです。
 その2人の間に存在するのは「程度の差」であり、僕とあなたの 間にあるのも、つまり「程度の差」に過ぎません。
 だから、こういうときは、
 「お前は俺よりかなり偽善者だな!!」
 という言い方をするのがフェアな態度といえるでしょう。


 また「良心」ですが、これも、個人差を許容する概念です。
 ある人と他人とでは「良心」つまり「善悪の判断基準」が異な るのは当然で、これが同じというのは、よほど気味の悪い状態だと 言えるでしょう。
 だから、ある2人に「良心」から発生したそれぞれの「行為」が あったとしても、「善行」のかたちとしては、あるいはまったく違っ たモノになるかもしれず、そしてそのことで、自分の価値に合わな いと言って相手を非難することもナンセンスです。
 人間なんて、違っていて当然。
 同じだったら気持ち悪いのです。



 ただ、ここに、「悪」というさらに困った概念があります。

 僕はここまで公明正大に話を進めてきたつもりですが、僕のこ の議論は、すべてが僕自身の「偽善」を隠すための詭弁である可能 性があるのです。
 判断は、皆さんにお任せするしかないわけですが・・・。

 僕の属性は、実はこの、「悪」なのです。

H.13 8/23



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