口頭無形分化剤 その21


「儀式」 −From Darkside−


 炎が、静かに揺れています。
 読経の声が、朗々と流れています。

 その僧が現れた瞬間、部屋はその僧の法力によって清められ、 厳粛な結界が張られました。
 僕は、あるいはただ1人、その異界から取り残されていました。

 その僧が発する呪文は退屈で、まずその意味が、僕にはほとん どわからなかったのだけれど、ときおり耳にする「生前の〜」とか、 「故人を〜」という言葉に、僕はうんざりしていました。
 産まれたその瞬間に、すでに「仏」であった僕の甥に、いったいどん な「生前」があったというのでしょう。
 高い金をとりながら、その程度のアドリブもきかないのかと、僕は 祭壇を見つめながら、正座に慣れない左足に閉口していました。


 青空の下で飲むビールは、なんであんなにも美味しいのでしょうね?

 火葬場で、焼き上がる甥を待ちながら、僕は1人葬儀場を抜けだし、 ビールを片手に喫煙タイムです。
 抜けるような盆の空と、すこし優しい風が、僕を祝福してくれています。


 僕の甥っ子は、どうやら少しおっちょこちょいであったようです。

 彼は、妹のお腹にいる10ヵ月、常に同じ方向に寝返りを打ってい たらしく、へその緒が、どうにもならないくらい捻れていたとのことで した。
 結局妹の子宮には、最初から何の異常もなかったわけで、つまり 僕の甥っ子は、栄養と酸素がうまく補給されない状態を、わざわざ 自分で演出したあげく、酸素不足で死んだのでした。

 医者は、この状態で、よくここまで大きくなったと感心していた らしいですが、感心するくらいなら、とっとと気づいて欲しかったと 思うのは、どうやら僕だけでもないようです。

 妹の旦那は、年輪を重ねているだけになかなか気丈で、小さな 桐の箱に収められた我が子に向けて、丁寧にシャッターをきってい ました。
 僕は、昨日の通夜の時点で、我が甥を画布に残さなかったことを、 ほんの少し悔いていました。


 母親からの血液を、自ら拒否した僕の甥。
 彼は、母親の腹の中で、いったいどんな悲惨な夢を、10ヵ月に 渡って見続けていたのでしょう。
 栄養がもらえないひもじさに、彼は1人で泣きながら堪えていた のでしょうか?
 それとも、これで下界で暮らさずに済むと、秘かにほくそ笑んで でもいたのでしょうか?

 「仏」として産まれた僕の甥の顔は、当たり前かもしれないけれ ど、驚くほどに穏やかで、菩薩のように安らかで、僕は結局、すこし も悲しい気分にはなれませんでした。


 ビールを二缶開け、僕は火葬場に戻りました。
 煙草をふかしてしばらく待つと、丸く小さかった僕の甥は、跡形も なくこの世から消えました。
 小さな小さなその指と、その先に付いた貝殻のような小さな爪を 思い出すたび、僕は彼が、いったい何のために産まれてきたのかと 考えずにはいられません。

 甥は、「仏」として、この世に生を受けました。
 皮肉でなく、「即身仏」ですね。
 わずか1日、「仏」としてこの下界の汚れきった空気にまみれ、そしてもう一度、 元いた世界に還っていきました。

 僕はすこし、旦那に魔法をかけました。

「今度はすぐに産まれるよ。あの子がまた、宿って来るよ」と。

 旦那もわかっているのでしょう。
 静かに笑顔で頷きました。


 妹の結婚式以来の服を身につけ、ネクタイだけを黒に換えた僕の 姿は、なんだかすこし滑稽です。
 肩幅が広く、胸板が厚く、それで身長が高くないから、どうにも こうにもしまりません。

 ただこの格好も、必要であるとも思うのです。

 「儀式」とは、形式です。
 形式とは、規則と順序です。

 僕の家族は、僕の甥を送るために、日本の多くの人がのっとる形式を 踏みました。
 それはいうまでもなく、消えていく甥っ子のためなどではなく、 下界に残り、これからも生きていかなければならない僕たちのた めに、です。

 下界から去らねばならない魂にとって、実は形式などどうでも 良いのです。
 去っていく彼に必要なモノが、もしこの世界にあるとすれば、それ は僕たちの「彼を悼む気持ち」であって、規則通りの手順で進めら れる儀式であるハズがないのです。

 「儀式」とは、常に、その当事者には本来必要のない通過儀礼で あるのでしょう。
 当事者を囲む、「周りの人たちとの関係」においてのみ、それは 必要になるのでしょう。

 僕はこの「儀式」を通過することで、甥っ子との関係に、ある区 切りを付けました。
 僕にとっては、それすらも本当は必要ではないのだけれど、それ でも、なんの実感のないものを、形式を踏むことで、なんとか形に 納めるという作業をすることができました。

 僕は、甥には、何の思い出もありません。
 妹やその旦那は、もちろんそうではないでしょう。
 妹はその「儀式」に参加することはできなかったけれど、旦那に とっては、この「儀式」は、絶対に必要なものであったハズなので す。

 すべてが灰になると懸念されていた僕の甥は、氷菓子のような可 愛く小さな骨をたくさんその骨壺に残して、この世界を後にしました。

 僕は朝からずっと酒を飲んでいますが、やっぱり今日も、すこしも 酔うことができないでいます。

H.13 8/19


戻る


他の本を見る     カウンターへ行く

雑記帳に記帳する(BBS)


e-mail : nesty@dp.u-netsurf.ne.jp