口頭無形分化剤 その17
「刹那」
−From Darkside−
人間の脳の作用というのは面白いモノです。
脳処理の速度は生理的には一定なので、理論的に言えばありえ
ないようなことも、人間の集中力次第では起こり得る。
例えば人間は、時間を流れを速くすることができます。
例えば人間は、時間の流れを遅くすることができます。
無論主観的なハナシです。
楽しいことをして集中していると、時間が経つのを忘れてしまって、
気がつくとエライ時間が経過していたりする。
集中力が高まると、ある一瞬を数秒にも感じることがある。
これらはすべて、人間の意識と脳処理の作用によって引き起こさ
れる魔法です。
けれど、「時間」は常に一定の速度で流れている。
いや少なくとも、そのように考えられている。
「時間」に対する研究は、まだまだ未熟なのです。
例えば人間は、「時間」というモノを理解するために、「時間割り」
のようなものを創ったりする。一定の時間が経過した後、別の行動
を起こすためのキッカケとして、それは非常に有効な手段です。
けれど、それは「時間の使い方」の理解を助けることにはなっ
ても、「時間」そのものを理解することにはならない。
「時間」は非常に我々の理解の及びにくい概念なのです。
なぜなら、我々が存在する3次元世界には、それは直接存在し
ないからです。
我々の上位思考は、基本的に「瞬間」を切り取って行われます。
我々は、「文字」、「言葉」、「数字」などを思考の道具とし
て使いますが、これらはすべて、「時間」の概念を端的に表現する
ことができないモノなのです。
「喩え話」はできます。
例えば「時間」を「永遠に流れ続ける大河」に喩えることはできる。
けれどそれでは、「なぜ時間が流れるのか」とか「本当に時間は
一定の速度で流れているのか」といった疑問に答えることはできない
のです。
我々にとって、それらは決して証明可能ではないのです。
無論、研究は行われています。
「宇宙のハジっこの向こう側」なんかと同様、理論的には到達可
能なのかも知れません。
けれど、いくつかの問題がそうであるように、我々が3次元世界か
らより高次の世界へ旅をしない限り、本当のところはどうなのか、
「時間」についてはわからないのです。
だから「時間」については、どこまでも主観的に語ることが正しい。
「時間」が速く流れるとき、僕は主観的に「楽しい」状態、ある
いは「夢中になっている」状態が多いような気がします。
逆に、遅く流れるとき、僕は「苦しい」状態、あるいは「しんど
い」状態、「つまらない」状態が多いような気がします。
そして意識の集中が極限状態の時、僕の「時間」は限りなく止
まった状態に近くなります。
過去、時間の流れが極限まで遅くなった「刹那」を、僕は何度か
経験しました。
記憶に残っている1回目は高校の頃。
体育の授業中、サッカーをしていた時のことです。
コーナーキックからゴール前にボールが上がった瞬間、不意に僕の
意識が消え、身体が驚くほどスムーズに動き始めました。
僕は視界にボールを捕らえながら、守備の3人の間を走り抜けて
裏に回り、そのまま飛び上がり、ヘディングでボールを地面に叩きつ
けました。
ボールは理想的な角度で地面から跳ね上がり、そのままゴールネ
ットに突き刺さりました。
その間、ほんの2秒ほどでしょう。
僕はその2秒のスローモーションを体験しました。
スローモーションの世界の中、僕だけが普通の動きをしていたよう
な錯覚がありました。
その映像は、ひどく鮮明に、僕の記憶野に刻み込まれています。
そして、もう1つ。
1996年11月10日午前2時24分−−−−
その「刹那」、時間は止まっていたのでしょうか。
視界に溢れた映像の意味を理解しながら、僕の脳裏には、信じ
られないほどの量の文字情報が氾濫し、考えられないほどの意味不
明な感情が錯綜し、どうしようもない絶望感に包まれながら、安息の
闇に堕ちていく感覚を同時に味わっていました。
脳処理の限界を超えた情報の洪水。
瞼を閉じれば、いつでも鮮明に再生することができる映像。
僕が、人を殺した瞬間です。
僕はこの「刹那」の映像を、死ぬまで忘れることはないでしょう。
H.13 8/5
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