口頭無形分化剤 その13


「神の視線」で見てみると


 僕は、大学4年の時、ある大変な事故を起こして自動二輪の 免許と車の免許とを失いました。
 欠格期間はとうに過ぎているものの、お金がないので車校にもう 一度入校することも出来ず、以来もっぱら個人的な移動には、公共 交通機関と自転車を使用せざるを得なくなりました。
(何て地球に優しい男でしょう・・・!)

 暑い夏の日など、そもそも出かけることそのものがおっくうにな ってしまいがちですが、それでも一度自転車に乗ってしまうと、それ はそれでまんざら悪いものじゃないなと思ったりもします。
 雨の日はダメですよ。
 曇りも不愉快です。
 やっぱり、抜けるような青空の日が良いですねぇ。
 景色が走り始めてしまえば、どんな暑さもそんなに気になりません。
 ペダルをこぐ足がノってくると、知らずに鼻歌などが洩れたりします。
 俺はまだまだ若いぞ、などと、思ったりして。

 考えてみると、自転車を発明した人はエライですね。
 自動車や汽車(電車)を発明した人もエライですが。
 これらは皆、移動時間を縮める道具であるわけです。
 こういう便利な道具が発明されると、例えばある距離を、より短時 間で移動することができるようになりすね。
 それらの道具がない昔の人たちに比べれば、僕たちはその浮いた 時間を自由に使うことが出来るわけで、その点だけでみても、考えよ うによっては僕たちは、昔の人たちよりも長い時間を生きることが出 来るようになっている、とも言えるのかもしれません。

 ま、長く生きればいいという問題ではなくて、密度はどうなんだ、 という話もありますが・・・。
 閑話休題。


 自転車に限ったものでもないですが、僕は身体を使っているときに、 頭が良く働いているような気がします。
 厳密に言うと、単純な作業を行っているとき、ですね。
 作業そのものにさほど頭脳労働を必要としないとき、僕の頭脳は むしろ活発に働いているようです。
 ま、くだらないことを延々と考えてることが多いのですが。

 で、今日考えていたのが、「神の視線」というものについてです。

 僕は宗教屋ではありませんので、「神」を語るにはよほどの慎重 さが必要であるとは思うのですが、なにぶん随筆のことですので、 無礼はあらかじめ承知してもらわなければなりません。

 承知できそうもない人は、ココから先へは進まないように。
(・・・さぁ、ブラウザの「戻る」で帰りましょう!)


 「神」と一口に言っても、人によってこれほど受け止め方が違う 単語もあまり無いでしょう。
 世界には宗教よりはるかに多くの「神」がいて、例えば本邦では、 物でも長い年月が経てば「神」になりますし、人間が偉業を残すと 「神」になれますし、それどころか怨みが大きいだけでも「神」に なれたりします。

 僕が語ろうとしている定義の「神」は、八百万(やおよろず)の 神々が神留(かむずま)り坐(ま)すこの島国では、およそそぐわ ない議論であることは、僕もあらかじめ良く承知しているのです。
 日本の「神」は「人格神」ですからね。
 僕がしたいのは、そういう込み入った話ではない。

 もっと遙かに砕けたヤツなのです。
 例えば、「パチンコの神様」とか、「競馬の神様」とか、そうい う類のヤツ。
 僕らがごく安易に使う、そういう「神様」です。
(一神教ならなお簡単で、エホバなりヤハウェイなり主なりがそれです)

 この「神様」なんですが、僕らはどうやら「未来」を知ってる、 あるいは「未来」を左右できるという点で「神様」扱いしてるんじ ゃないですかね?


 「神様」ってのは、僕らが属する現実世界(リアルワールド)には 僕らと同じ方法では存在していません。それは確実で、存在したとし ても「部分」であって「総て」ではありえない。
 その残りが何処にあるのかというと、僕らが住む3次元世界の1コ 上かそれよりさらに上の世界、つまり4次元以上の次元の世界に部 分、あるいは総体として存在しているはずなのです。

 4次元世界というのは、3次元世界の座標に「時間」の軸をもう 1つ加えた世界だと一般に言われています。

 僕が想像し得るのは、辛うじて4次元までで、それ以上となると、 そもそも言語で表現できるのかどうかも疑問なのですが、その4次元 世界から3次元世界を眺めると、3次元世界の過去も未来も俯瞰する ことができるはずで、この4次元にある存在(?)こそが、今回僕が 語ろうとしている「神」なのです。
(おーい! ついてきてるかー!?)

 想像しがたいですかね?
 例えば、アナタが1度読んだ小説を読み直してる場面を想像して下 さい。
 アナタはその登場人物の過去も未来も、またその登場人物を取り巻 く状況の変化まで含めて、小説世界の総てをあらかじめ知っているわ けです。
 知っていて、なおその小説を読んでいる状態。
 これが、ちょうど4次元から3次元を眺めた状況に似ているのでは ないかと思います。
 正確ではないにせよ、僕としてもそれ以上は想像をする術がありません。
 このような状況を、今日の議論において、仮に「神の視線」と名付けます。


 パチンコなどをしていると、よく考えるのです。
 「神の視線」を持っていれば、さぞや愉快であろうなぁ、と。
 あらかじめ「未来」がわかる状況というのは、ことギャンブルにお いてはまさしく「神」です。
 当然無敵です。
 そりゃぁもうウハウハです。

 でもね・・・。

 「神はサイコロ遊びを好まない」

 と言ったのは、記憶違いでなければアインシュタインだったと思う のですが、この言葉は、「神は好きなサイコロの目が出せる」とい うことではなく、「神は次に出るサイコロの目をあらかじめ知ってい る」という意味で捉えなければいけません。

 そう、重要であるのは、

「神さえも、自分で振るサイコロの目は自由にならない」

 ということです。

 神は高い次元にいてこその神ですが、3次元世界で「サイコロを 振る」という行為をしたとすれば、その限りにおいて、神さえも3次 元世界の法則に従わなければならないはずなのです、・・・たぶん。

 だから、僕が仮に「神の視線」を持っていたとして、「この台は 出る」と知っていたとして、実際にその台でパチンコを打ってみて、 本当に出るかどうかは、結局終わってみなければわからない、とい うことになってしまうのです。

 ・・・・・何の意味も無いじゃないですか!!(血泣)

 アインシュタインは、この素晴らしい法則を、「不確定性原理」と 名付けました。
 アインシュタインでさえ、僕をパチンコで勝たせることは出来ない と言うことでしょうか・・・。

 随分とくだらないサイクリングをしてしまったものです。

H.13 7/23



インデックス へ

他の本を見る  カウンターへ行く


e-mail : nesty@mx12.freecom.ne.jp