口頭無形分化剤 その10


「竹中半兵衛」という生き方


 つらつらと歴史を振り返ってみると、本邦では、「軍師」と呼ぶ に足る人物というのは、実はそれほど多く出ているわけではないよ うです。

 これが英雄豪傑が群がり出た中国の三国時代ならば、「軍師」 を語るにこと欠きません(といっても、さほど詳しくないですが・・・)。
 言わずと知れた諸葛孔明。
 劉備には、徐庶、鳳統。
 曹操には、荀いく(漢字が出ない・・・)、司馬仲達。
 孫権には、周喩、陸遜。
 エトセトラ、エトセトラ・・・・。

 いずれ劣らぬ知略の持ち主が、それぞれの主を助け、生き生き と力を振るいました。

 けれど、なぜか本邦では−−例えば天下を獲った羽柴秀吉の幕 下でさえ、「軍師」として後世まで知られた人物といえば、如水軒 −−黒田官兵衛と、あと1人、竹中半兵衛があるきりで、他に「軍 師らしい軍師」はあまり思い浮かびません。
 徳川家でいえば、本多正信がこれに当てはまりそうですが、彼は 軍師と言うよりは謀臣で、毛色が多少違います。
 武田信玄には「キツツキの戦法」で有名な山本勘助という「軍師」 がいたとされていますが、これはまだ、実在すら証明されてない状態 であったと記憶しています。

 もちろん、能力的に言えば「軍師」に足る知略を持つ武将はたく さんいますが、そもそも「軍師」という、いわばナンバー2の位置に 甘んじることが出来る人物は、さほど多くはないのかもしれません。
 「軍師」というのは、成立自体が難しいのです。

 竹中半兵衛重治−−
 秀吉による「三顧の礼」の連想から、本邦の諸葛孔明とも呼ばれ る稀代の軍師です。
 彼はなぜ、「軍師」となり得たのでしょう?


 竹中半兵衛は、幼い頃からさほど目立つ存在ではなかったようです。
 真面目なおぼっちゃま。
 日焼けもせず、本ばかり読んでいるもやしっ子。
 そんな印象の半兵衛は、美濃斎藤家に仕える竹中重元の長子とし て、不破郡岩手村(現・岐阜県垂井町)の菩提山城に生を受けます。

 それまでまったく無名であった彼が、一躍歴史にその名を刻むこと になるのは、21歳の春のこと。
 主君や同僚からいびられ続けていた半兵衛は、同僚から小便 を浴びせられ、ついにキレます。
 「病の弟の看病のため」と称して、わずか数名の部下とともに主 君斎藤龍興が住む稲葉山城に乗り込んだ彼は、城中に密かに運び 入れた武具で武装し、夜陰に紛れて蜂起します。嵐のように暴れ回 る半兵衛たち一党に、斎藤家の家来たちは大混乱になり、主君斎藤龍 興は命からがら城を落ち延び、主だった家臣もほうほうの体で逃げ 出しました。
 あの「美濃の蝮」斎藤道三が縄張りし、織田信長がどうしても陥 とせなかった稲葉山城を、半兵衛は20にも満たない手勢で、鮮やか に奪って見せたのです。

 斎藤家の面々は、まさに呆然としたことでしょう。それまで「うら なり瓢箪」とバカにしていた半兵衛が、一夜にして主君から稲葉山城 を取り上げてしまったのですから。

 これに敏感に反応したのが、上総介織田信長です。
 彼は早速半兵衛に使いを送り、その知略を絶賛し、美濃半国を 条件に半兵衛を幕下に誘いました。
 この信長の誘いに対する半兵衛の返答が面白い。

「稲葉山城を乗っ取ったのは、武士の意地と面目のためであって、 斎藤家に謀反をする気などは毛頭ない。主君の城を奪い、それを 他国に売るなど、そんな恥知らずなことができるはずがない」

 半兵衛が、たんに無欲な男だったのか?
 それも確かにあるでしょう。けれど半兵衛とて乱世の人間です。 酔狂だけ死を賭してこんな危険な賭をするはずはありません。
 竹中半兵衛重治ならば、そこに冷徹な時勢眼と千里眼のごとき 先見の明があったはずです。
 彼が狙ったのは、なによりもその宣伝効果であったのではなか ったか−−

 時は戦国も中期。
 戦乱は全国でくすぶり、各地で骨肉相喰む醜い争いが行われて いるその最中、この半兵衛の振る舞いは、難攻不落の稲葉山城を 鮮やかに奪い取ったその知略と共に、全国の人々の心に鮮烈な印 象を残したことでしょう。

 半兵衛は、無能な斎藤龍興という主君に、愛想を尽かせていま した。
 斎藤家を去るにあたり、彼は自分の知略と度胸と能力とを広く宣伝 しておく必要があったのです。

 現に半兵衛はこの事件の後斎藤家を去って、琵琶湖の畔に隠棲 を決め込み、その後その知略を惜しんだ信長によって招かれます。
 その使者となったのが、木下藤吉朗−−後の秀吉であったことは、 先にも触れた通りです。


 24歳の半兵衛は、信長に命よって秀吉付きの「軍師」となりました。
 これは、半兵衛にとっても秀吉にとっても、幸運な巡り合わせであ ったとすべきしょう。
 秀吉は織田家ではまだ軽輩で、権威や武士の常識とも無縁の人間 であるため、半兵衛は自らの力を大いに振るうことが出来たはずだし、 秀吉としても天下第一とも言われた半兵衛の知略を、その出世に十分 活用することが出来たのだから。

 実際、半兵衛を得た後の秀吉は、次々と大功を樹てます。
 斎藤家を切り崩すための美濃三人衆への内応工作、本国寺の防衛 戦、浅井家の諸将の調略−−
 なかでも浅井・朝倉軍の挟撃から信長を救った「金ヶ崎城の殿軍」 は、秀吉を一躍飛躍させた「事件」といって良い出来事でしょう。

 金ヶ崎城に殿軍として残されたのは、秀吉旗下わずか700の手兵 に過ぎません。信長の本隊は遠く琵琶湖を西に迂回して疾風のような 勢いで遁走してしまっており、周囲はまったくの孤立無援。この状態 で、朝倉景鏡率いる5000の軍勢の追撃を防ぎ止めつつ、 見事退却を成功させねばなりません。

 このあたりが、「天才軍師」竹中半兵衛の真骨頂です。

 笹沢左保氏の「軍師竹中半兵衛」によれば、
 まず半兵衛は「空城の計」で多少の時間と距離を稼ぎます。
 あらかじめ手勢をすべて鉄砲隊にしておき、これを8段に分けて銃 陣を敷くと、慌てて追撃してくる朝倉軍を迎え撃ちました。
 百雷を一時に落とすような轟音の中、間断なく撃ち込まれる銃弾。
 闇の中に輝くその火線は、何千という軍勢がそこに控えているよ うな錯覚を朝倉軍に与えたことでしょう。
 馬首をそろえて突き進んできた大軍は、突然の銃撃を受けても急 に後退することは出来ず、大混乱となった朝倉軍は実に1割−−500 人以上の死傷者をだし、無惨にも壊走します。

 事実も、この状況とさほどの違いはなかったでしょう。
 因みにこの実戦で有用性を確かめられた鉄砲の運用法は後の織田 軍にも用いられ、あの戦国最強といわれた武田騎馬隊を打ち破る結果をもたらします。
 鉄砲の集団活用としては、本邦でもごく初期の事例と言えると思い ます。


 この頃から半兵衛は、どうも体調が思わしくなくなります。
 彼はどうやら、結核持ちであったようです。けれど彼は病躯を押し、 静養を繰り返しながらも秀吉に付き従います。
 おそらく、自分が長く生きられないことを悟ってもいたのでしょう。
 そして、この世に自分が生きた証を残したかったのではないか−−?

 半兵衛は死ぬその瞬間まで、信長からも秀吉からも1寸の土地も 受け取ってはいません。彼は生涯織田家の客分としての身分を固持 し、名声とも出世とも無縁の人生を送ります。
 「欲」というものが元来薄く、それを望まない彼がこの世に残そ うとした「作品」−−それが、木下藤吉朗−−後に羽柴秀吉となる 人間であったのではないか−−

 秀吉は、年下の半兵衛を「師」と呼び、半兵衛が織田家の客分 になり、秀吉付きの「軍師」となっても、その尊敬と敬服は変わら なかったようです(もっとも、「人たらし」の秀吉のことですから、 内心はそれなりに複雑ではあったでしょうが・・・)。
 半兵衛はその秀吉に好意を持ちました。
 秀吉の出世を助けることによって、己の知略を天下に問う。
 職人がそうであるように、半兵衛は己の作品とその作品を創り上 げる過程そのものに、人生を賭けるだけの価値を見いだしていたの でしょう。

 半兵衛は結局、36歳の若さでこの世を去ります。
 秀吉は別所氏の籠もる三木城の攻略をまだ終えておらず、無論 天下獲りへの道筋などまだまったく見えてはいません。
 そういう意味では、半兵衛は無念であったでしょうか・・・?
 それとも、無私無欲な彼にとっては、己が死ぬその時まで己の力 を縦横に使うことが出来たという意味で、満足ゆく人生であったの でしょうか・・・?

 それは、想像の域を出ません。
 ただ重要なのは、後世に生きる我々が竹中半兵衛重治をして、 本邦きっての「軍師」であるということを知っている、という、この 事実です。
 彼が世に出て活躍したのがたった十数年でしかないことを思えば、 やはり半兵衛は、宣伝が上手かったと言えそうです。

H.13 7/14



インデックス へ

他の本を見る  カウンターへ行く


e-mail : nesty@mx12.freecom.ne.jp