計算機は「心」を持ち得るか

--計算機における「心」の実現に関する一考察-- ver. 3.2


2.人と心


2.1 デカルトの陥穽

 「心」とはいったい何なのか? この疑問は根が深い。
 我々の直観と常識に基づくなら,「我々の中にあって,あらゆる活動 のもとになっているなにものか」くらいの広い定義なら収まりが良い。 「心」は我々のあらゆる行動,思考,知覚,意識,情動などに直接な んらかの関連があり,我々はそれらを(意識を心的活動とするならば) 「心」を通して認識しているからである。人間は身体と,それを操る 「心」とを持っており,「心」とは,「人間の身体を使役する我々その もの」であるとさえ思われる。しかし,このような心身二元論的定義を, 何の考察もなしに適当なものであるとしてしまうのは,少々性急すぎる。

 ライル(Gilbert Ryle)は「心の概念」において,我々が陥りがちな このデカルト的「心」観を「カテゴリー錯誤」だとして徹底的に退ける ことを試みた。いったい我々の直観に基づく「心」の解釈は,どのよう な点で誤りを犯しているのだろうか。少々長くなるが,判りやすくまた重 要であると思われるので,ここでは彼の言葉を引用しながら,その「カ テゴリー錯誤」について考察してみることにしたい。

 以下("The Concept of Mind",London,Hutchinson,1949. 坂本百 大 他訳,『心の概念』,みすず書房,1987.[3])よりの引用である。

 ライルはまず,我々の直観に極めて整合的なデカルティズムの見地を 概観する。

心の本性とその位置づけに関し,学者のみならず一般の人々の間にお いてもまたかなり広く流布している,公式教義と呼ぶことがふさわしい ようなある教説が存在している。この説教に対しては多くの哲学者,心 理学者,宗教家は,ごく僅かの保留を付けるのみで大筋においては同 調している。彼らはこの説教に論理的な難点が含まれていることを認め つつもなお,この難点はその理論の基本構造に対して重大な修正をほ どこすことなく克服することができるものであると考えているように見え る。以下本書において,私はこの教説の中心的緒原理が実はまったく 不健全なものであるということ,さらにまた,それは奇妙な思弁を弄し ない限りすべての人が「心」について知っている事実とも矛盾すること になるということを示したいと思う。
この公式教義は主としてデカルトに由来するものである。それはおお むね以下のような形で述べられる。
重度の精神発達遅帯者や赤子 の場合は例外とすべきか否かやや疑問が残るが,一般に,人間はすべ て身体と心をもつ。あるいは,あらゆる人間は身体であると同時にまた 心でもあると述べるほうがよいかも知れない。

〈 中略 〉
人間の身体は空間の中に存在し,そして空間の中に存在する他のすべて の物体を支配する機械的な法則に従う。身体的な過程や状態は外部の 観察者によって調査することが可能であり,それ故人間の身体的生涯は 動物や爬虫類のそれと同じく公的 public な事柄であり,その意味にお いては木や水晶や惑星が辿る経歴ともまったく変わりがない。
これに反し,心は空間の中には存在せず,その作用も機械的法則には 従わない。ある人の心の働きを他の観察者は覗き見ることはできない。 その経験は私的 private であり,私自身の心の状態や過程を直接に認 知できるのはただ私一人なのである。したがって,人間は二つの平行す る歴史を生きることになる。すなわち,彼の身体の中で,彼の身体に対 して生起する事柄から成る歴史と,彼の心の中で,彼の心に対して生起 する事柄から成る歴史の二つである。前者は公的であり,後者は私的で ある。前者の歴史の中で生起する事件は物的世界 physical world に おける事件であり,これに対し,後者の歴史の中で生起する事件は心的 世界 mental world における事件である。

 まさにこれは,ライルが退けようとしているデカルト神話,デカルト的 「心」観に他ならない。
 ライルは,デカルトが説いた人間機械論,心身二元論を,「機械の中の 幽霊のドグマ(the dogma of Ghost in the Machine)」という蔑称 をもって呼び,この見解が,細部においてというよりむしろ根本におい て誤っていると断じた。

 先にも述べたように,我々にとってこの心身二元論的な立場は,これ までの経験からいっても直観に基いても非常な魅力がある。しかしライ ルはいう。

それはたんなる個々の誤りの集まりであるのではなく,一つの大がかり な 誤りであり,同時にまた,ある独特な種類の誤りなのである。そ の意味に おいてこれは「カテゴリー錯誤」 category-mistake と呼 ぶのがふさわしいと思う。

 では、ライルのいう「カテゴリー錯誤」とはいったいどういうことを指 すのだろうか。まず彼は,いくつかの事例を挙げることで,彼が「カテ ゴリー錯誤」という言葉によって表現しているものがどういったものであ るのかを示す。

オックスフォード大学やケンブリッジ大学を初めて訪れる外国人は,まず 多くのカレッジ,図書館,運動場,博物館,各学部,事務局などに案 内されるであろう。そこでその外国人は次のように訪ねる。「しかし, 大学はいったい何処にあるのですか。私はカレッジのメンバーがどこに 住み,事務職員がどこで仕事をし,科学者がどこで実験をしているのか などについては見せていただきました。しかし,あなたの大学のメンバ ーが居住し,仕事をしている大学そのものはまだ見せていただいており ません。」

〈 中略 〉

彼の誤りは,クライスト・チャーチ,ボードリアン図書館,アシュモレ ー博物館,そして大学というように並列的に語ることができると考えた点 にある。彼は,無邪気にも,「大学」ということばがこれらの建物をメ ンバーにもつクラスのもう一つの特殊なメンバーを指すかのように語るこ とが正しい語り方であると仮定してしまったのである。すなわち,彼は 大学というものを他の諸々の建物が属しているカテゴリーと同じカテゴ リーの中へ組み入れるという誤りを犯したのである。

 ある特定のカテゴリーに属するものを,それとは別のカテゴリー,あ るいはそれとは別のレベル,別の論理タイプで語られなければならない ものと同列に扱おうとする,無知から生じた錯誤。これが,ライルが 「カテゴリー錯誤」と呼んだものである。
 ライルは「心」に対する我々の直観が,まさにこのカテゴリーの取り 違いを犯していると主張する。

 科学の天才であったデカルトは,人間の中に幽霊や魂といった神秘主 義的なものが存在しないないということをよく心得ていた。しかしそれ を認めるということは,同時に「心」的なものが機械的なものの単なる 変種であるという議論を受け入れるということであった。人間の「心」 がそのようなものであれば,人間とゼンマイ仕掛けの人形の相違が,単 に複雑さの程度だということになる。
 ライルによれば,宗教人,道徳家として,デカルトはこの現実を受け 入れることができなかったのだという。そこでデカルトは,心的行為を 表す語と機械的過程の生起を表す語を分離することを試みた。「心」と 「身体」を別のカテゴリーに分類し,それぞれを別の法則に従う実在で あるとしたのである。

たとえば,人間の舌や手足のある運動は機械的原因の結果であるが, 他方,それ以外の運動は機械的ではない原因の結果でなければならな い。すなわち,あるものは物質粒子の運動によって生起し,他のものは 心の働きによって生起するということになるであろう。

〈 中略 〉

心はものthing ではあるが,身体とは異なった種類のものである。あ るいは心的過程においても原因と結果は存在するが,それは身体的運 動の場合とは異なる種類の原因であり,また結果であるなどと考えたの である。かの外国人が大学をカレッジと同類の,しかし同時にかなり異 なる別の建物と考えたのと同様に,機械論を拒否する人々は,心という ものは機械と同類ではあるが,しかしそれとはかなり異なる,因果過程 の別の中枢であると説明したのである。結局のところ,彼らの理論は一 種の疑似機械論的仮説であった。

 しかし,デカルティストたちは,この二元論には強力な論理的難点が あるということをきちんと認識していた。
 それは,意志のような心的過程が,どのようにして手や足といった物質 を動かして空間的運動を惹き起こすのかといったようなこと。また,身 体の各センサーによって引き起こされる,神経電位の物理的変化が, どのようにして心的知覚という結果を惹き起こし得るのかといったような こと。つまり,「心」と「身体」がいかにして影響を及ぼし合っている かという点である。

 
そこでデカルトは,無意識のうちに力学の文法に固執しつつもなお,力 学の語彙に対応する単純な対語を用いて心を記述することによって議論 の破局を避けようと試みたのであった。すなわち,心の働きは,身体の 特性を記述するために用いられる語の単純な否定語を用いることによっ て記述されなければならなくなったのである。かくして,心は空間の中 には存在せず,何らかの運動でもなく,また物質の変様でもなく,むし ろ公共的観察の及ばぬところに存在する様な何ものかであると記述され ることになった。

 〈 中略 〉

心はたんに機械に繋ぎ留められた幽霊であるのみならず,それ自身が まさに幽霊機械なのである。

 デカルトは「心」に身体と同じ「実在」の待遇を与え,身体を記述す る方法で「心」を記述しようとした。したがって,「心」と身体との相関 関係を説明する必要に迫られたのである。
 それからのデカルティストたちは,確かに様々な方法で心−身関係の 構築を試みた。しかし,それではデカルトが犯した過ちそのものを精算 することはあり得ないのである。
 ライルはいう。

ある二つの名辞が同じカテゴリーに属している場合には,その両者を含 む連言的な命題を構成することは適切である。たとえば,買い物客が右 手袋と左手袋を買ったと述べることは可能である。しかし,彼は右手袋 と左手袋と,そして一対の手袋とを買ったと述べることはできない。

 〈 中略 〉

「彼女は帰宅して涙の洪水かまたは椅子かごかのいずれかに身を沈め た」という選言を作ることも同様に馬鹿げたことであろう。さて,機械 の中の幽霊のドグマはまさにこの種の馬鹿げたことを現実に行っている のである。それは身体と心との両者が存在し,物的過程と心的過程と の両者が生起し,かつ身体的な運動には機械的な原因と心的な原因と の両者が存在するということを主張するものである。ここで私が明らか にしようとすることはまさにこのような種類の連言の仕方がまことに不合 理であるということである。ここで付言すべきことは,私はこの連言命 題の連言肢のどちらか一方が不合理であるということを主張しようとして いるのではないということである。たとえば,心的過程が生起するとい うことを私は否定しない。長除法を遂行することはたしかに心的過程で あり,冗談を言うこともまた然りである。私の主張は「心的過程が生起 する」という表現は「物的過程が生起する」という表現と同じ種類のこ とを意味しているのではないということであり,したがってその二つを連 言ないし選言の形で結合させることには意味がないということである。

 デカルトが誤ったのは,「心」を力学の観点で理論付けようとした点 である。
 ライルは,実体としての「心」と身体の対立を,カテゴリーの調整と いう形で言語問題に置き換え,回避できることを示した。ライルはこの 後,意志,情緒,意識や感覚といった具体的な心的機能を挙げ,デカ ルト的二元論では不合理な帰結が導出されるのことを示す。デカルトの 理論が持つ矛盾を指摘し,我々が直観によって受け入れているものを 無知からくる取り違えだとするのである。

 我々は「心」を持っている。また,我々は「身体」を持っている。 しかし「心」を持っているというときの「持っている」と,「身体」を 持っているというときの「持っている」とでは,語が指す意味は違う。 それは「水位が高くなる」,「年齢が高くなる」,「望みが高くなる」 というときに,「高くなる」という同一の語が,それぞれ違う意味を表 しているのに似ている。

 我々は「心」を語るとき,無意識にそれを「身体」と対比させて同じ カテゴリーの両極に配置し,「身体」において成り立った「状態」「過 程」「変化」「因果」などの概念を,そのまま「心」においても使用 しているのではないだろうか。
 また,我々が従わねばならない物理法則に対立する概念として,精 神法則とでもいうべきものを無意識に創り出し,この二つの法則性に支 配される存在として「人間」を考えていないだろうか。それらはまさに, ライルがデカルト神話と揶揄したものにほかならないのである。

 以上のことから示されるように,「心」とは物と同じカテゴリーに入 る実体ではない。ライルはこのような言語分析によって,「心」を実在 の身体と 同列に配置するという古典的な心身関係を打破したのである (注2)。
 このような発見により,いまや我々は,まったく新しい方向からこの 問題を見直すことが可能となった。


インデックス へ

2.2 様々な「心」観 へ


e-mail : nesty@mx12.freecom.ne.jp