計算機は「心」を持ち得るか

--計算機における「心」の実現に関する一考察-- ver. 3.2


2.人と心


2.3心−脳関係

 「心」はどこから産まれてきたのか。また「心」は何処にあるの か。この疑問を考えるとき,脳は切り離せない存在である。
 人間の「心」がどのような仕組みで構築されるものであれ,それ は脳と身体中に張り巡らされた神経細胞を抜きにして語ることはで きない。我々の「心」の存在が,脳の活動と密接な関係を持って いるということは,脳の機能地図が解明され始めた現在,もはや疑 うべくもない。
 しかし,字義通りの意味で,脳は本当に「心」を産み出している のだろうか。ここでは脳の活動と「心」の関係について,具体的 に考えてみることにしよう。

 我々は「心」がどのように創り上げられているか,ということは直 接知らないが,それでも「心」が脳の活動の産物であるらしい,と いう通説に疑問を抱くことはあまりしない。我々にとって,脳とはそ のような存在であるし,我々の身体の中には,他に心的活動を担っ ているような器官がない。
 人間の脳は 10の11乗の神経細胞(ニューロン)と,少なくとも 10 の15乗のその結合(シナプス)からなっているといわれる。
 エーデルマン (G.M.Edelman)によれば,シナプスの多様性は10 の10乗の6乗という超天文学的数字になるという(全宇宙の陽電荷 粒子の数が,考えられる範囲で10の80乗個)。これだけみても人間 の脳というものがいかに特殊なものであるかを知ることができる。
我々は幼児期から行われる膨大な経験と学習によって,ニューロ ンを刺激し,シナプスを増大させる。神経系の発達の原理及び脳の 機能局在などに関する詳細な検討をすることはここではできない。 我々の「心」に関する興味の方に的を絞ろう。

 先にも述べたように,我々の心的活動は脳の神経細胞の活動に よって引き起こされているらしい。しかし,これは我々の直観と必 ずしも整合的ではない。
 我々のある心的振る舞いが,脳のある神経細胞群の局所的な活 動に起点を置くものであるとしても,例えば「あるニューロンが興 奮したから,我々が痛みを感じるのだ」などということはどうして も思えない。むしろ我々の直観は,そこが痛いから痛いと感じる のであり,お腹が空いているから空腹を感じるのである。

 しかしこの我々の直観は,次のような事実とは相性が悪いように 見える。
 例えばある人が怪我をして,その部位に局部麻酔を射ったとしよ う。彼は麻酔によって痛みを感じなくなる。しかし,それは痛みの 原因そのものがなくなったわけでも,まして怪我をした部位が治癒 したわけでもない。ただ麻酔によって,神経の経路が遮断され, 脳の痛覚神経まで怪我をした部位からの興奮が伝わらないだけな のである。そのとき我々は,そこが痛くても痛いと感じることはで きない。

 別の例を挙げよう。
 我々はお腹が空くと空腹感を感じる。しかし生物として人間を見 たときに,空腹を感じるのは,厳密な意味で本当に空腹になった 時では都合が悪い。なぜなら通常生物は,捕食に多くの労力を費 やすものであり,生命維持に危機を感じるようになって空腹を感じ たのでは,遅すぎるからである。
 空腹や満腹は,我々の脳の空腹中枢,満腹中枢から出されるパ ルスによって引き起こされるものであり,正当な意味で我々の「心」 が身体から感じるものではない。

 しかし,私は上に挙げた例示に,ある欠点を指摘することがで きる。そしてそれはまさに,ライルが「カテゴリー錯誤」とした語弊 に他ならない。
 例えば怪我をした部位から脳の痛覚神経まで興奮が伝わらない, だから「心」は痛いと感じない。この言い方はカテゴリーのミスで ある。これは「心」というものがあり,そこが「痛い」という感覚 を認知する,という図式によって我々は理解する。しかし,「心」 は認知活動の主体ではなく, 認知する主体そのものなのである。
 我々は「心」という場所で「痛い」と知るわけではなく,そのとき 主体そのものが「痛い」のである。麻酔によって神経を遮断された から痛みが感じられないのではなく,そのとき主体(我々の意識) にとってこの「痛み」そのものがないのである。
 我々の「心」は満腹中枢や空腹中枢からパルスが出たから満腹 や空腹を感じるのではない。パルスと,それを我々の意識が理解 するということが我々の「満腹」であり「空腹」なのである。
そういう意味合いにおいて,我々の直感は「心」を非常に適切に 認識しているといえる。我々にとって「心」とは,それについて考 え始めたときそれがわからなくなってしまうような性質のものであり, それについて語ろうとしなければ,我々は「心」というものを非常 によく理解し,親しんでいるのである。

原一元論的心脳関係

 坂本の「原一元論」では,例えば空腹のパルスそのものに「心 的」あるいは「物的」といった概念を適応させることはしない。
 パルスの生起というかたちで表現されるあらゆる脳活動は確か に物的現象であるが,それをモニタする主体が,それを「心的」 な事象であるか「物的」な事象であるかを判断するはずである (この場合は「空腹」という物的事象によって引き起こされたパル スを,「空腹感」という心的事象によって,主体たる意識が理解 するということになる)。
 坂本は,この主体的に判断される前の段階の脳処理を「原事 件」と呼び,これを「心的」,「物的」区別がないものとしたの である。この手法で脳処理を判断する限り,我々の脳処理を矛盾 なく「心」の活動に反映させることができる。
 しかし,この方法では一見,私の「意識」というものが,私の 中で私をモニタする「小人」のようなかたちで存在しているような 印象を受ける。「意識」とはある面でそのような性質のものであ るが,しかし,真正にそのようなものではない。

 では,内省によって「意識」と「私」というものの関係について 考えてみみよう。

 例えば今,私が目を開けて「ディスプレイ」を見ているとしよう。
 ここにおいて体験される報告は,「ディスプレイが見えている」 という事実であろう。そしてもう一つ,「私がディスプレイを見てい る」という内省によって報告されるものが意識されている。
 坂本はこの二者を「対象意識」と「メタ意識」という名で区別し た。
 我々が何かを見ているというとき,必ずこの二者が相伴って生起 している。例えば「私がディスプレイを見る」という報告文は「「デ ィスプレイが見えている」がメタ意識されている」ということなの である。すなわち「私」と言う主体を示す語が表すものは,「対象 意識」を「メタ意識」しているということによって生起する,という ことがいえる。
 ここにおいて非常に重要なことが導かれた。つまり,「私」とい うものがあって,それが「意識」を持っているというわけではない, ということである。
 このときの「私」とは,「他者」との比較において語られる概 念ではなく,「対象意識」と「メタ意識」の相関によって形作られ たなかば理論的存在なのである。したがって,当然ながら小人の ごとく我々の中に存在しているものではない。

 無論「私」の概念は,「対象意識」と「メタ意識」の相関によ ってのみ創られるものではない。
 「他者」という対立人格から「私」という概念について多くを学 ぶであろうし,「私の意識」の反省を繰り返すことによってさらに 「私」という概念を明確に同定していくことになるのであろう。
 坂本もいうように,むしろ,「対象意識」と「メタ意識」の相関 によって創られるのは,極めて根源的,始原的な意味での「私」 の概念であり,その後我々は膨大な学習と経験によって「自我」 といったものに向かって「私」を成長させていくのである。

 「意識」は,少なくとも我々の「心」の活動の文字通り意識可 能な部分においては,非常に重要な機能である。
 我々は,(我々の通常の意識ある状態において)常に意識を持 っており,それによって様々な心的機能をモニタする。しかし,こ の機能は我々の中にいる小人の目を使った監視作業ではないので ある。

 我々を「心」と「身体」の全的まとまりでとらえようとする理論 は,心身関係に新たな展開を与えたと言っていい。元々我々とは 「心」と「身体」という二つの異なったものによってできあがった ものではない。我々が「心」であり「身体」であるからである。 そしてその「心」と「身体」があるとするカテゴリーからみれば, 「我々」とは架空の理論的実在なのである。それは,我々は「心」 と「身体」を持っている,ということはできても,「我々」と「心」 と「身体」がある,という言い方ができないということによって よく表されている。


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