「心」というものがある,といっても,その解釈は理論によって
様々である。
昔から哲学者や心理学者は,その理論の構築に多くを費やしてき
た。そして近年,神経科学,大脳生理学等の急速な発達に伴い,
心身問題は再燃しつつある。
ここでは,我々の「心」に対して,現在どのような議論がなされ
ているのかということについて概観しよう。
これは他我問題と呼ばれている古い哲学的議論である。我々は, 普通我々自身については「心」があるということを疑わない。しか し、他者の「心」については,自身の「心」を認識する仕方では 観察することができない。そこで,自分以外のものに「心」や自我 といったものを認めないという立場が成立する。いわゆる独我論 である。
独我論の理論によれば,世界に実在するのは「私の心」と,そ
の「心」が創り出した観念だけである。
例えばいま,私は「椅子」に座り,「ディスプレイ」に向かい,
「キーボード」を叩いている。しかし独我論の世界では,この「椅
子」「ディスプレイ」「キーボード」は実在でなく,「私の心」が
創り出した観念であるというのである。
この観念を,脳処理の結果創り出されたもの,換言すればそれ
は「情報」である,としたのが「唯報論」。これらは観念論的な
心身の一元的解釈であるといえる。
このような解釈は,理論としては非常に強力な系である。我々 の直観からいえばいくらか荒唐無稽だが,しかしそれらは矛盾を 含まない。
もちろん,それがいかに完璧な理論であったとしても,だからと
いって実質的かつ意味のあるものとして受け入れるべきであるなど
ということにはならない。独我論的な立場は,自己以外の他者の
実在や,その他者の「心」の存在をも否定する。実際このような
立場は,何かを新しいものやより迫真性のあるものを産み出すこと
はない。
更に悪いことには,このような理論では,なぜ我々が他人に
「心」があるように思うのか,その説明さえもできない。しかし,
一元論であるということは,上述したように矛盾がなく,強力であ
る。
独我論を捨てるということは,他者の実在を認めるということで
ある。そしてまた,他者の「心」を認めるということでもある。我
々の出発点は,やはりここに置きたい。
我々の直観に則していえば,世界を我々の観念であるとするよ
り,我々を世界の中に組み入れるという立場の方が,より事実に
整合的である。
しかしそれならば,我々は「心」と「身体」の新たなる関係の
可能性を模索する必要に迫られる。そしてデカルト的二元論に関し
ては,前節において否定した。
我々に残された道を探ろう。
この理論は多岐にわたるが,最近の生理学的知見の増大によ って,現在有力に浸透しつつあるものとしては「心身同一説」, あるいは「心脳同一説」を挙げることができる。
スマート( J.C.C. Smart)らによって構築されたといえるこの仮 説は,心的現象とそれに対応する大脳過程を「同一のもの」とし て結びつける。坂本百大によれば,
我々は常識的に,「心」の活動は脳の活動と深く関わっていると いうことを心得ている。したがって「心」的現象と脳の活動とは同 一のものの異なる側面であるという言い方をされると,とても耳障 りよく聞こえる。
ではこういう言い方をすればどうであろうか。例えば,我々が 「痛い」と感じるのは脳のB繊維の興奮である。
これは我々の直観に整合的でるといえるであろうか。我々の直 観に基づくならば,我々が「痛い」と感じるとき,「痛い」のはま さにその「痛い」場所であり,頭の中ではない。
しかし,我々の「心」の働きにとって脳の活動が重要である,と いうことは,我々にとってすでに常識となっている。我々の「心」 の検証にとって,脳の考察は避けて通ることができない問題である。 よってこの議論は次節において詳しく行うことにする。
もともと「人間」とは,一つの「まとまり」であったのではない
か,という直観が,これらの理論のキーワードになっている。
「原一元論」は「心脳同一説」に属し,「相補的二元論」は矛
盾を含んだ二元性をそのまま受け入れることを提案する。
人間とは単なる「心」でも,また単なる「身体」でもない。それ は一つのものである。我々は,見方によっては物的事象であり,ま た他の見方をすれば心的事象でもある。それは不可分であり,か つ全的なものとして機能する。これらの理論は,「人間」が相矛 盾するものを同時に持っているという事態を許容しようとする試み である。これは我々の直観から見れば,少なくても非常に整合的 で,かつ魅力的な仮説であるといえる。
二重相貌説との違いは,これらの理論が「人間の身体」の全的 な重要性を強調する点であろう。この二者は,デカルトとは別の仕 方で二元性を融合する道を提案している。
我々の脳は疑いなく物的存在である。そして「心」が非物的存在
であることもまた疑いない。
ソフトウェア論は心身関係をコンピュータに見立て,脳をハードウ
ェア,「心」をその上で走るソフトウェアだとする。この見方の重要
な側面として,高橋英之は次の三点を挙げる。
「心」の存在を認めることと,それを「外的対象物」として捉え ずにおくこととは,必ずしも矛盾しない。問題は,それらを語ると き,我々がカテゴリーミスに注意を払う必要があるということである。
高橋が指摘するように,「心」のソフトウェア論と心脳同一説と の差違は,「心」がそのハードウェアたる脳から独立に存在しうる という点であろう。この点については,3章において考察する。
この他にも,心身関係には様々な仮説が存在する。
例えばサール(John R. Searle)のように,「心」というものは
「生物」特有の性質であり,それは「水」が「液体」であるよう
に本来的なものであるとするような立場。また「魂」の様なものの
特性である,とするような立場。さらには,「心」の神秘は量子力
学の神秘と同様,基礎的性質として時空に埋め込まれているのだ,
とするような立場(注6)。
もちろんここでは,これらの仮説ををそれぞれ詳細に検討するよ
うなことはできない。
しかし,我々の直観は,少なくとも次のことに関しては受け入れ
ることができる。つまり「心」というものが,「身体」とりわけ
「脳」と密接な関係を持ったものである,という事実である。
「心」はソフトウェアなのか,それとも脳機能の別の側面なのか。
生物固有の特性なのか。いや,もしかしたらそのどれでもないのだ
ろうか。
次節においては,この「脳」と「心」の関係について考察してい
こう。