計算機は「心」を持ち得るか

--計算機における「心」の実現に関する一考察-- ver. 3.2


3.機械と心


3.3人の心と機械の心

心身の親和性

 「心脳同一説」にみられる,「心」とは脳過程である,という仮 定を受け入れるならば,「我々」の(自我,自意識,あるいは自 己といったような)立場からみた「心」とは,「身体」の対立概念 というよりは,一種の理論的存在という方が正しい。
 「心」は「身体」のような物的存在ではないが,しかし我々から 見たとき,それは確かに実在している。これは,計算機のハードウ ェアに対するソフトウェアの関係に似ている。ハードウェアの観点か らでは,ソフトウェアを推し量ることはでき ず,またソフトウェアの実行結果からでは,ソフトウェアやハードウ ェアを知ることは,やはりできない。

 私の仮説に沿うならば,「身体」自体がハードウェアに相当し, 「心」がソフトウェア,「我々」がそのソフトの実行結果というわけ である。

 しかし,このアナロジーは若干誤解を生む恐れを持つ。なぜなら, ソフトウェアがハードウェアから独立して存在するという印象を与える からである。
 「人間の心」というものを考える場合,この類推は危険を伴う。 確かに,汎用コンピュータにはあらゆるソフトウェアが載り,その意 味において,ソフトはハードの一意的関数ではない。また,ソフト ウェアは,同系列であれば別のハードウェア上においても同一の機 能を示す。しかし,人間の「心」と「身体」は非常に密接な繋がり をもっており,「我々」はそのかけがえのないものから出来上がっ ている。それらは不可分であり,また全的なまとまりである。

 この両者の関係をもっとよく知るために,例えば,職人の「技」 というものについて考えてみよう。
 我々はある任意の技能を集中的に訓練することによって,専門 的な「技」を身に付けることができる。熟練した職人は一種の 「勘」の様なものを身に付け,第三者が理解し得ない情報を理解 し,処理するようになる。

 また,こんな例を挙げることもできる。我々には「記憶」という ものがある。
 この記憶という脳の働きには,海馬と呼ばれる部分が深く関与し ているということが臨床的に知られている。記憶が「心的」な働き であることは疑いないが,記憶にはいくつかの種類があって,その 一つ,「運動性の記憶」というものに注目すると,例えば我々は, 「身体で覚える」ということが可能である。
 「身体で覚える」ような記憶の典型は,「泳げる」「一輪車に 乗れる」といった身体技能の獲得である。このような技能は,い ったん獲得されると,当人が練習をしたことを忘れてしまっても, 保持される(養老猛司『考えるヒト』[35])。

 我々が獲得することができるこのような身体的技能は,「心的」 な感覚と「身体的」な感覚双方の,全的なまとまり,深いリンクが 不可欠である。また,その「心」と「身体」から出来上がってい る「我々」にとっても,その二者は分かち難く結ばれているとみる べきである。

「心」の創造

 「我々」にとって,「心」と「身体」は分かちがたいものであ る。それならば,「心」を計算機上に創ることはできないのであろ うか。

 我々は,「『心』を創る」という場合,無意識に我々のような 「人間」の「心」をコンピュータ上で機能させることを考えてしま う。あるいはディスプレイに向かってキー入力すると,人間並の返 事を返してくるようなシステム。すなわちテューリングテストのよう な状況を想像してしまいがちである。
 しかし,はじめに指摘したように,機械に「心」を実現すること と,「人間の心」をコンピュータに持たせることは,現実性からい ってもそのアプローチの方法からいっても,ほとんど別のことであ る。

「人間の心」の実現

 我々自身が持っている「人間の心」とは,普通我々がこれまで 生きてきた人生の様々な経験と学習によって形成された我々のパー ソナリティそのもののことを指す。 したがって,当然ながらそれは非常に個人にユニークなものであ り,その形成においては個人の資質,環境等に非常に依存的であ る。
 これをコンピュータによって実現させるのは尋常でない困難が容 易に予想されるが,方法としては一応以下の二通りが考えられ得る。

 一つめは,人間の脳を究極にまで解明し,その働きを機能的に まったく過不足なくコンピュータにシミュレートさせる方法である。
 しかし,この方法は次の二点において現実的であるとはいえない。
 脳の解明に対する医学的,技術的側面が一点。
 さらにそれをシミュレートできたとしても,それをしたときに起こる であろう喜劇的な惨事がもう一点である。
 我々の存在は,我々の「身体」なくしては語ることができない。 運動はもとより,発声などを含むあらゆる行動が,突き詰めれば 「身体」の筋収縮によって行われている。
 また五感と呼ばれる我々の脳の入力は,やはりこの「身体」なく しては得られない。
 この「身体」を伴わず,脳だけをシミュレートすることは意味が ない。我々はそこに何が実現しているのかさえ解らないからである。

 もう一つの方法は,「心」をコンピュータに実現した上で,それ を人間にするというものである(計算機上に「心」を実現するとい う議論は,次節において考察される)。
 これは,前出に比べていくらか実現可能性が高そうであるが,や はり途方もなく困難である。機械に実現した「心」を人間にすると いう作業は,例えるなら赤ん坊を育てることに似ている。しかし, それより遥かに困難であることは疑いない。
 なぜなら少なくとも我々が想像し得るコンピュータは,我々ほど 入力装置がなく,出力装置にも恵まれていないからである。
 我々が「人間の心」を形成できるという当たり前の現実には, 我々が人間の「身体」を持っているというやはり当たり前の事実が 大きく作用している。

 ネーゲル(Thomas Nagel)は,1974年に発表した「コウモリで あることはいかなることか?」と題する論文[13]において,人間以 外の生物が何らかのかたちで意識をもっているということの意味を, 「その生物であるときにそうなるだろうような何かが存在するという こと」にほかならない,とした。
 知っての通りコウモリは,超音波探知機によって外界を知覚し, そしてその探知機は我々が持っているいかなる感覚器官とも類似し ていない。つまりコウモリは,コウモリの仕方で世界を捉え,コウモ リの仕方で理解をしているはずである(この言い方は正確ではない。 ここでは便宜上こういう表現を使っているが,「理解」という概念 がコウモリの脳の大きさで我々と同様に機能するのは,おそらく不 可能である。ミンスキー(Marvin Minsky)の「心の社会」理論 (『心の社会』,産業図書,1990. [17])によれば,人間の「心」 の機能は,心のエージェントたちが織りなす小さなプロセスが集ま って社会的に構成されるという。この小さなプロセスが集まって創 られた「理解」というような概念が,どの程度の複雑さを持ったシ ナプスネットワーク上に実現可能であるか,というような問題は実 に興味深い)。
 我々は我々が意識する限りにおいて,他の動物(少なくともあ る種の哺乳類)に固有の「視点」,固有の意識を認め得る。そ れと同様に,我々はコウモリであるとしたらならばそうなるだろう ような何かが確かに存在し,そしてその特有の何ものかをこそ, コウモリはまさにコウモリの脳処理の結果として体験しているのだ ということを認めなければならない。それは,人間であるとこと はいかなることかということを,我々が我々の視点で知り得るか らであり,我々に我々の脳処理があるように,コウモリにコウモリ の脳処理があることが疑いないからである(私は,コウモリが他 のコウモリの「視点」に立ってものを見ることができるというよう な,人間並の脳処理を押しつけるつもりはなく,この様な論点は おそらく,すでにネーゲルの意図したものからは外れている)。

 いうまでもないが,この「そうなるだろうような何か」は,我々 が他の人間や高等動物に対して行う他者認識やある種の感情移入, また他の動物などに行う行動の擬人化などといったものとは明らか に異なる。これは,自分がこのように思えるから相手も同様の仕方 で思うことができるはずだとか,自分がコウモリであったらこんな 感じを受けるはずだといったような性格のものではなく,脳を持つ 生物にはその脳固有の情報の処理方法と結果があり,すなわちそ の生物固有の「視点」があるというのである(「そうなるだろう ような何か」を,私は「視点」という言葉で表現した。繰り返すが, これはおそらくネーゲルが意図した言葉の使い方ではない。『マ インズ・アイ』におけるこの論文に対する短評の中でホフスタッタ ーは,ネーゲルは「われわれであるということがいかなることであ るのかを想像できない生物にも到達可能な用語を用いた記述」を 与えることが可能であるかどうか,ということに興味の中心があっ たらしい,と述べている。この言い方は挑発的だが,ネーゲルが おそらく自覚しないまま,コウモリであるということが「主観的に いかなることであるのかを客観的に知りた」がったのだというホフ スタッターの指摘は的を獲ている)。

 何の学習も経験も行われていない「赤子の心」が「人間の心」 になるためには,少なくとも必要条件の一つとして人間固有の「視 点」をもつ必要がある。それには人間固有の入力と出力とその処 理機構を持っていることが不可欠ある。なぜなら世界や自己,時 間や「ここ」といった,人間の「視点」を形成するために重要な 概念を「人間の仕方」でカテゴリー化する際,五感を通じて物事 を知り,存在者として世界に作用し作用されること,そしてその結 果をフィードバックして学習し,経験を積むことがとりわけ重要だ からである。

 しかし,これは生まれついての障害者を人間でない,あるいは 人間としてなにかが欠けているとすることとは根本的に違う。
 例えば生まれつきの全盲者は,視覚情報が自己の世界から欠落 する。しかし彼らは彼らの仕方で世界を認識し,彼らなりのカテゴ リー化を行っている。視覚情報の欠落は,聴覚,触覚など他の入 力によって補われ,やはり「人間の仕方」で情報のカテゴリー化を 行うことができる。すなわち人間の「視点」を得るためになんらの 不都合は起きないのである。

 これらのことより考え併せると,「人間の心」を創るということ は,「人間の仕方」の情報のカテゴリー化を実現するということに 大きなウェイトが占められていると考えられ得る。それならば, 「人間の心」を実現するということに対して,ここ にもう一つの,そしてお馴染みのアプローチの仕方が現れる。
 それは「人間の仕方」で情報のカテゴリー化を行うことができる システムを実現する,という方法である。

人間の「視点」を持つシステム

 しかし,「人間の仕方」で情報のカテゴリー化ができる機械を創 ったならば,その機械が「人間の心」を持ったということになるの だろうか。
 我々は今こそネーゲルの議論を思い出すべきである。ネーゲルは 「コウモリであるならばそうなるだろうようななにか」が存在するこ とを指摘し,それを「コウモリの意識」と呼んだ。しかし,これは ネーゲルのカテゴリーミスである。なぜならコウモリは我々よりもは るかに脳の処理容量が不足しており,我々に比べればはるかに貧 弱な知覚的,概念的カテゴリーの集合しか持ち得ないからである。
 コウモリは,我々のように他者に心を重ねてみるようなことはお そらく可能でないし,「そのようなことに煩わされもしない」(ホ フスタッター)。しかし,機械が「人間の仕方」で情報のカテゴ リー化が行い得ると仮定したならば,ネーゲルが犯したカテゴリー ミスはすでにクリアされている。そしてそれは,その機械の固有の 「視点」ということができ,いうなればまさに「その機械の意識」 と呼ばれるべきものなのである。

 しかし私は,ある機械に独自の「視点」が備わっているというだ けで,その機械に「意識」−−広い意味での「心」があるなどと いうつもりは毛頭ない。
 少なくとも現在のコンピュータは世界を我々のように把握できな いが,しかし自己を中心とした指示の体系によってその周囲の世界 を記述するようにプログラムすることは可能であって,そこにコンピ ュータ固有の視点が存在しているのは異論の余地がない。しかし, コンピュータがそれだけで「我々のような仕方」で情報をカテゴリ ー化を行っているということはできず,また「意識」が備わってい ないのも自明である。

 我々が注意しなければならないのは,あくまで情報の扱い方で あり,驚異的な数の知覚的,概念的カテゴリーを持ち、それらが 社会的,相互依存的に(いわば脳処理的に)機能されたときにこ そ,そこに「心」のようなものを認めるべきなのである。

人間の心

 それでは,「人間の心」を創るということは結局どういうことな のだろうか。
 それは有機体のみが持っているアプリオリな特性のようなものを 人工的に構築することでもなければ,テューリング・テストに合格 できるほどの知能を持ったプログラムを書くことでもない。
 それは,我々が属している外界を知ったりそれとコンタクトをとっ たりする手段を,我々に極めて類似した方法で持っているというこ とと,情報を処理するために十分な容量を持った処理装置を備えて いるということ,そして我々「人間の仕方」で情報のカテゴリー化 が可能であるということである(これはある種の生得的な障害者を 「人間の心」を持つことができない,あるいは劣った「心」を持 つとして貶めることではない。例え不幸にしてある種の感覚器官や 身体に障害を負って生まれてきたとしても,動くことができないデス クトップコンピュータと比べて外界に及ぼし及ぼされる作用がどれ ほどの差があるものかは想像するまでもない。また蛇足だが,人 間の「視点」を持ち得る自立した機械と,ある種の障害者を比べ る議論は意味をなさない。なぜなら真正にそのような機械が誕生 したならば,倫理的にいってそれはもう「人間」であり,我々と同 等の人権を認めなければならないからである。そのような機械が 持つ「心」と,我々の「心」とには,もはや差違がない。例えば 貴方に向かって,「実はお前は機械だ」と,ある日誰かに宣告さ れたと想像すればよい。そのとき貴方は,自分が機械であることを 理由に,自分に人権がないと考えられるだろうか。それはもう,奴隷 に人権がないというのと同レベルである)。

 実践的な人工知能研究者は,「人間の心」を実現するために 「我々のような仕方」で情報のカテゴリー化を行うシステムの研究 を続けてきたかも知れない。しかし,もしそれが実現したとしても, それは「人間の心」ではない。なぜならその機械には人間のよう な仕方で外界を知るすべがなく,結果として人間のような「視点」 を持ち得ないからである。それはむしろ「人間のような」考え方が できるシステムであり,人間に似た知能を持ち得るシステムである。 そしてそれはまさに,私の考える「機械の心」と呼ぶべきものを創 ったことに他ならないのである。

「心」というもの

 「人間の心」とは,本来的に個人に極めてユニークなものである。
 それは「心」というものがその形成過程において,環境のような 外的要因に大きく影響を受けることに由来する(もちろん遺伝や教 育などの要因も大きく関わってくるが,ここでは一時おく)。
 我々はよく「人間の心」という言葉を使うが,そういう意味におい ては「心」のプロトタイプが存在するわけではなく,それを一義に 決めてしまうというのは滑稽である。しかし,「私の心」や「貴方 の心」を「人間の心」というカテゴリーに組み入れることに,我々 はためらわない。それは私や貴方が外見的に似た「人間」である ことに由来するのかも知れないが,本来ならば,我々の「心」を 生じさせる身体的活動とその結果が,機能的に似ているという事実 に根ざすべきなのである(前述したように,各人の脳のシナプスパ ターンは同一ではなく,その意味においてまさに我々の「心」の諸 活動は機能的にのみ似ているのである)。
 つまり,いま,ある機械が我々の様な「人間の仕方」で情報の カテゴリー化が行い得ると仮定したならば,我々はそれを「心を持 った機械」と呼び,その機械の「心」を「我々の心」という同じカ テゴリーに組み入れなければならない。 そしてそのとき「人間の 心」という表現は,ただ種族の違いのみを表すものになるべきであ る。なぜなら仮定において「機械の心」が我々の「心」と機能的 に等価であるとした以上,機械は我々のような方法で,自身の「心」 や「他人の心」について考えているだろうことは疑いないからであ る。


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